人生の法則 ES1 ― 変わることのない法則 ―
2012-02-26(Sun)
日本の最高学府である東京大学を出て埼玉県新座市にある臨済宗平林寺の専門道場の門をくぐったのは24歳の時。
いま振り返ると、崩すべき多くのものを抱えたまま修行道場に入門していた。
彼は京都の臨済宗大本山妙心寺派・退蔵院(たいぞういん)の長男として生を受けていた。
退蔵院は如拙(じょせつ)が描いた国宝「瓢鮎図(ひょうねんず) 」をはじめ、春のしだれ桜や四季折々の花が美しい余香苑(よこうえん)など多くの見所がある古刹(こさつ)です。
幼少期からいずれ寺を継ぐ運命にあることに嫌悪感を人一倍感じていた。
自分の努力が反映されないまま、勝手に将来のレールが敷かれていると強く思い込み、友人から「将来、寺を継ぐことになるのに、なぜそんなに勉強するのか」と聞かれるのが何よりも嫌だった。
10代後半には跡継ぎになることへの不満がピークに達していた。
それだけに東大に合格した時は「これで跡を継がなくても済む。将来は日本を支える外交官か弁護士になろう」と解放感に浸ったりもした。
跡継ぎになるか、自分の道を選ぶか。
葛藤は続いたが、就職活動をする頃になると不思議にも「日本の将来は優秀な学友たちに任せておけば安泰だ。あえて自分が出しゃばる必要はない」「解雇されることはあっても望まれて仕事に就くことはなかなかない。僧侶になれるのは幸せなことだ」と思えるようになる。
少しずつだが、不満は薄らいでいた。
東大に入ったのだから、より高レベルなことを学んでおこうと、大学院にも進んでいた。
そんな彼を道場で待っていたのは、学門とは対照的な行の世界だった。
この日から禅僧としての本格的な修行が始まる。
専門道場の修行は、それは厳しいもので、朝は3時に起床し1時間読経。
薄いお粥、梅干し、漬物という質素な朝食を済ませると、作務(さむ)と呼ばれる労働が待っていた。
僧堂は原則自給自足。
農作業や薪割(まきわ)りまですべて修行僧自らが行わなければならない。
終日作業に汗し、夕食後、6時から零時まではひたすら坐禅。
そして3時間の睡眠の後は眠たい目をこすりながら禅堂に入って再び読経・・・。
次に続く!
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彼は京都の臨済宗大本山妙心寺派・退蔵院(たいぞういん)の長男として生を受けていた。
退蔵院は如拙(じょせつ)が描いた国宝「瓢鮎図(ひょうねんず) 」をはじめ、春のしだれ桜や四季折々の花が美しい余香苑(よこうえん)など多くの見所がある古刹(こさつ)です。
幼少期からいずれ寺を継ぐ運命にあることに嫌悪感を人一倍感じていた。
自分の努力が反映されないまま、勝手に将来のレールが敷かれていると強く思い込み、友人から「将来、寺を継ぐことになるのに、なぜそんなに勉強するのか」と聞かれるのが何よりも嫌だった。
10代後半には跡継ぎになることへの不満がピークに達していた。
それだけに東大に合格した時は「これで跡を継がなくても済む。将来は日本を支える外交官か弁護士になろう」と解放感に浸ったりもした。
跡継ぎになるか、自分の道を選ぶか。
葛藤は続いたが、就職活動をする頃になると不思議にも「日本の将来は優秀な学友たちに任せておけば安泰だ。あえて自分が出しゃばる必要はない」「解雇されることはあっても望まれて仕事に就くことはなかなかない。僧侶になれるのは幸せなことだ」と思えるようになる。
少しずつだが、不満は薄らいでいた。
東大に入ったのだから、より高レベルなことを学んでおこうと、大学院にも進んでいた。
そんな彼を道場で待っていたのは、学門とは対照的な行の世界だった。
この日から禅僧としての本格的な修行が始まる。
専門道場の修行は、それは厳しいもので、朝は3時に起床し1時間読経。
薄いお粥、梅干し、漬物という質素な朝食を済ませると、作務(さむ)と呼ばれる労働が待っていた。
僧堂は原則自給自足。
農作業や薪割(まきわ)りまですべて修行僧自らが行わなければならない。
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